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歴代天皇

歴代天皇一覧 (http://www.netlaputa.ne.jp/~kitsch/rekidai/tenno.htm)
天皇とは君主の称号。飛鳥浄御原令に定められたといわれており、以降現代に至る。それ以前の古代には大王(おおきみ)と呼ばれていたという。以前は万世一系と言われていたが、最近の研究では古代に王朝交代や王朝並立があったという考えが主流になっている。
古代の天皇が異常に長命とされているのは、讖緯説(一種の天命思想で数字にこだわる)によって逆算すると、推古天皇9年(変革の年に定められている)から1260年前(紀元前660年)が起源となるため、天皇の数に比してあまりにも時間が長くなってしまい、一代あたりの割り当ても長くならざるを得なかったためと言われる。
古代・中世には自ら政治を見た天皇もいるが、後醍醐天皇を最後に、天皇親政は行われていない。
以下のリストは、歴代天皇の内、神話上の実在性が疑われている天皇、天皇に代わり政務を見た皇族、北朝天皇、また後世天皇の称号を与えられるが歴代天皇には加えられなかった皇族も( )で載せてあります。
代数 名称 在位 備考
  1 神武天皇 天孫で神話の人代最初の人物。筑紫日向から東遷して畿内に王朝を築いたとされる。在位76年、127歳(古事記は137歳)で没。
  2 綏靖天皇 神武天皇の第3子。在位33年、84歳(古事記は45歳)で没。
  3 安寧天皇 綏靖天皇の子。在位38年、57歳(古事記では49歳)で没。
  4 懿徳天皇 安寧天皇の子。在位34年、77歳(古事記では45歳)で没。
  5 孝昭天皇 懿徳天皇の子。在位83年、137歳(古事記では123歳)で没。
  6 孝安天皇 孝昭天皇の第2子。在位102年、137歳(古事記では123歳)で没。諡号のタラシヒコは景行・成務・仲哀・舒明・皇極の各天皇や神功皇后と同じで、それに続くクニオシは欽明天皇と同じである。
  7 孝霊天皇 孝安天皇の子。在位76年、128歳(古事記では106歳)で没。
  8 孝元天皇 孝霊天皇の子。在位57年、116歳(古事記では57歳)で没。
  9 開化天皇 孝元天皇の子。日本書紀では115歳、古事記では61歳で没。諡号のヤマトネコは持統から元正天皇までのものと同一。
 10 崇神天皇 記紀神話の記事などから、開化天皇(葛城王朝)から権力を簒奪した三輪王朝の祖という説もある。比較的実在性のある最初の天皇。
 11 垂仁天皇 崇神天皇の子。在位99年、140歳(古事記では153歳)で没。いろんな逸話が記されている。
 12 景行天皇 垂仁天皇の子。諸国平定を行い、子のヤマトタケルも諸国へ派遣した。80人子供がいたが、3人を除き、地方に送られ在地豪族となったという。
 13 成務天皇 景行天皇の子。在位60年、107歳(古事記では95歳)で没。
 14 仲哀天皇 急死した天皇で、実在性を疑問視されたり、滅亡した古代王朝の最後ではないかとも言われる。
 - 神功皇后 日本書紀第9巻丸ごと記事になっている皇族。仲哀天皇の皇后で、応神天皇即位までの間摂政として成務をつかさどり、三韓遠征、内乱鎮定などを行った。実在性は薄いが、履歴は詳細。日本書紀には、参考として魏志倭人伝が記されている。古い史料では第15代天皇として描かれているが、水戸学では含めておらず、明治時代に天皇から除外した。
 15 応神天皇 応神王朝の祖とも言われる天皇。応神・仁徳同一人物説あり。
 16 仁徳天皇 記紀神話では色好みな天皇と嫉妬深い皇后として描かれている。皇后は臣下出身の初例。陵墓に比定された古墳は稀にみる巨大な墓である。
 17 履中天皇 在位6年で没。宋書にある倭王「讃」か。
 18 反正天皇 宋書にある倭王「珍」か。
 19 允恭天皇 宋書にある倭王「済」か。
 20 安康天皇 記紀神話では7歳の義子(妻の前夫(殺害した大草香皇子)の子)に殺害されたとある。宋書にある倭王「興」か。
 21 雄略天皇 発掘品に見られる「ワカタケル大王」と考えられている人物。記紀神話では優しい面と悪逆な面の両方の性格が描かれている特徴的な天皇。宋書にみられる倭王「武」ではないかといわれる。古事記では在位23年、124歳で崩御とある。
 22 清寧天皇 雄略天皇の第3子。在位5年で没。事歴のはっきりしない天皇で、諡号のヤマトネコは持統から元正天皇までのものと同一。
 - 飯豊青尊 飯豊青皇女ともいう。清寧天皇と次代の顕宗・仁賢の間で政務を見た皇族。履中天皇の子あるいは孫という。「扶桑略記」には飯豊天皇とある。
 23 顕宗天皇 履中天皇の孫。日本書紀では即位3年、古事記では即位8年で没。子は無し。
 24 仁賢天皇 弟顕宗天皇に皇位を譲った後、その死後即位した。在位11年で没。
 25 武烈天皇 日本書紀では暴虐非道の天皇として描かれており、歴代天皇の中では異色の人物。次の継体天皇の正当性を表すための創作とも言われる。戦前は教育対象から外されたことも。古事記には子が無く即位8年で崩御とだけある。
 26 継体天皇  ~531? 57歳で即位し、各地を転々として、20年後に大和に入った。また応神天皇の5世孫という皇親系統も離れた人物で、これ以前とは別の王朝と言う説もある。これ以降の天皇は継体の系統になっている。謎の人物。
 27 安閑天皇 即位が不明瞭な天皇。欽明天皇と並立・別王朝の説もある。継体天皇の即位前の子とされてる。
 28 宣化天皇 即位が不明瞭な天皇。欽明天皇と並立・別王朝の説もある。継体天皇の即位前の子とされてる。
 29 欽明天皇 539?~571? 継体天皇の嫡子で、継体の死の年に即位した説もあり、安閑・宣化両天皇と並立していたのではないかと言われている。仏教公伝の時代である。
 30 敏達天皇 治世中に崇仏・廃仏の論争が起こった。
 31 用明天皇 聖徳太子の父。在位2年(古事記は3年)で崩御。
 32 崇峻天皇 ~592 蘇我氏勢力の東漢直駒によって暗殺された。
 33 推古天皇 592~628 最初の女帝。欽明天皇の皇女。聖徳太子を摂政として政務をとらせた。蘇我氏とは協力的だったとも言われる。
 34 舒明天皇 629~641 敏達天皇の孫。蘇我蝦夷に擁立された。温泉好きの天皇である。
 35 皇極天皇 642~645 女帝。舒明天皇の皇后で、天智天皇、天武天皇などの母親。蘇我入鹿が政権を担当、大化改新で譲位した。
 36 孝徳天皇 645~654 舒明天皇の子で皇極天皇の弟。大化改新で即位。難波宮を居とした。政務を担当した中大兄皇子が突如皇族官人らを率いて大和に去ったため、一人残され退位を決意、まもなく病死した。
 37 斉明天皇 655~661 皇極天皇の重祚。弟孝徳天皇が死ぬと重祚した。子の中大兄皇子が政務を担当。唐・新羅連合軍との戦争で、博多まで赴いている。
 38 天智天皇 668~671 舒明天皇の子で、大化改新を起こした中大兄皇子。皇子時代から実権を握っていた。改新の諸改革を行ったが、660年、百済支援のために派遣した軍勢は唐・新羅連合軍に大敗した。律令体制の確立に尽力する。
 39 弘文天皇 671~672 大友皇子。日本書紀では即位していない。天皇に列せられたのは明治になってからで、古史料に即位の記事が多いことを指摘した水戸学の影響による。
 40 天武天皇 673~686 天智天皇の弟。大海人皇子。壬申の乱を起こして大友皇子を敗り即位。皇族親政を行い、律令国家を目指し様々な制度を整えた。この治世は白鳳時代と呼ばれている。
 41 持統天皇 690~697 天智天皇の娘で、天武天皇の皇后でもある。朝鮮半島への出兵の際には、自ら九州へ赴き草壁皇子を生んだ。近江朝廷の天智天皇と夫大海人皇子との関係が悪化すると、夫と共に大和吉野へ下った。壬申の乱で勝利後、夫が即位し皇后となると政治を補弼したという。夫の死後は政治を担当しながら草壁皇子の即位に動くが皇子が死ぬと自ら皇位に就き、藤原京遷都、律令体制を整備した。皇孫に譲位した後も政治を見た。
  (春日宮天皇) 施基親王。光仁天皇の父。
  (岡宮天皇) 草壁皇子。天武天皇の子で、皇太子だったが死没。文武・元正天皇の父。
 42 文武天皇 697~707 天武・持統両天皇の孫。律令を整備した。文武に秀でていたとも言う。
 43 元明天皇 707~715 女帝。草壁皇子の后。実子文武天皇の死を受けて即位。娘に譲位した後も、諸政策に影響を持っていたという。
 44 元正天皇 715~724 女帝。元明天皇の娘。未婚のまま女帝となり、諸政策を行う。
 45 聖武天皇 724~749 文武天皇の子で藤原不比等の孫。即位後、皇位継承や重臣重用の問題でたびたび藤原氏と対立諸氏との間で争いが起こる。藤原広嗣の乱が起こると都を次々移転、さらに仏教を保護して国分寺・国分尼寺を全国に置き、東大寺大仏の製作を決定した。皇女に譲位した後は、光明皇后が実権を握ったと言われる。
 46 孝謙天皇 749~758 女帝。聖武天皇の皇女。母親の光明皇后に実権があったと言われる。東大寺大仏の開眼が行われる。高野天皇とも言う。
 47 淳仁天皇 758~764 孝謙天皇と対立して淡路廃帝となる。配流先で逃亡を試み死亡。
 48 称徳天皇 764~770 孝謙天皇の重祚。母親光明皇后の死後、禅師道鏡との関係が問題になり、淳仁天皇やその支持派と対立、それが元で勃発した恵美押勝の乱を鎮圧して淳仁天皇を廃し、自ら重祚した。その後も道鏡を寵愛し法王の位を授けた。
 49 光仁天皇 770~781 天智天皇の孫。長いこと皇位継承の争いをさけていたが、称徳天皇の死で擁立された。道鏡を左遷、藤原氏を重用し、外交政策を行う。
 50 桓武天皇 781~806 光仁天皇の子で、母親は渡来人系の高野新笠。長岡、平安に造京遷都。さらに蝦夷遠征に失敗するなどして疲弊、造京と遠征を中止した。子葛原親王の子孫は桓武平氏となる。
  (崇道天皇) 早良親王。光仁天皇の子で桓武天皇の弟。藤原種継暗殺事件に連座して淡路配流となり、その途上暗殺された。死後、兄天皇から崇道天皇の追号を受けた。
 51 平城天皇 806~809 当初疲弊した経済の建て直しに努めたが、早良親王の怨霊に悩むようになり譲位した。譲位後は側近を連れて平城京へ移ったが、政治に介入したため薬子の変が起こった。
 52 嵯峨天皇 809~823 桓武天皇の子。兄平城天皇より譲位。平城上皇が官人らを率いて平城京に移り、両京朝廷が出現、薬子の変に至る。その後は安定した時代が続き、文芸が大いに興隆した。50人以上の子がおり、母親の地位が低いものは臣籍降下して源姓を与えた(嵯峨源氏)。
 53 淳和天皇 823~833 桓武天皇の子。安定した時代と言われる。
 54 仁明天皇 833~850 嵯峨天皇の子。安定した時代だったという。「続日本後紀」はこの代の正史。
 55 文徳天皇 850~858 仁明天皇の子。承和の変で皇太子となり即位。藤原良房の権力下にあり実権はなかった。
 56 清和天皇 858~876 文徳天皇の子。9歳で即位。外戚の藤原良房が摂政となった。権力を巡る貴族間での争いも多く発生。譲位後仏門に帰依した。
 57 陽成天皇 876~884 清和天皇の第1皇子。摂政藤原基経の甥にあたり、基経は引き続き摂政、さらに関白に就いた。まもなく基経と対立し退位に追い込まれた。しかしその後は長命を保ち、滝口道範から妖術を学んだと言われる。
 58 光孝天皇 884~887 仁明天皇の第3子。55歳で即位。関白を置く。別名小松帝。
 59 宇多天皇 887~897 光孝天皇の子。一時臣籍降下して源定省と名乗った。即位後、藤原基経と対立し、阿衡事件を引き起こす。これを契機に基経の死後は人事に意を尽くして「寛平の治」と呼ばれた。譲位後も上皇として実権を握っていたが、出家後、藤原時平に実権を奪われた。時平の死後、醍醐天皇、藤原忠平と共同で政務に当たり、「延喜の治」と呼ばれるに至る。朝廷文化、文芸、仏教の発展に寄与した。
 60 醍醐天皇 897~930 宇多天皇の子で、父上皇や菅原道真、藤原時平・忠平らと協力して治世に取り組み、「延喜の治」と呼ばれる。しかし失脚して没した菅原道真の怨霊に悩まされ、清涼殿に落雷があった事件にショックを受けて譲位、まもなく没した。
 61 朱雀天皇 930~946 醍醐天皇の第14子。在位中に天災・人災・争乱が相次いだ。
 62 村上天皇 946~967 醍醐天皇の子で朱雀天皇の弟。外戚の影響下にあったが自ら親政を行い、文芸活動も盛んになった。後に「天暦の治」と呼ばれる。
 63 冷泉天皇 967~969 村上天皇の第2皇子。精神的に問題があったと言われ、摂政藤原実頼が実権を握っていた。後に安和の変で藤原氏が政界を独占する。
 64 円融天皇 969~984 村上天皇の第5子。花山天皇に譲位後も、発言力を持っていた。
 65 花山天皇 984~986 冷泉天皇の子。皇族外戚の権力闘争で出家失脚。出家後は芸能方面で活躍。
 66 一条天皇 986~1011 円融天皇の子。藤原道長と協力して治世に当たった。文芸が大きく興隆する。
 67 三条天皇 1011~1016 冷泉天皇の第2子。藤原道長と対立。道長の孫に譲位した。
 68 後一条天皇 1016~1036 一条天皇の第2子。藤原道長の孫で、道長を摂政にした。
 69 後朱雀天皇 1036~1045 一条天皇の第3子。藤原道長の孫。天災・人災が相次ぐ。
 70 後冷泉天皇 1045~1068 後朱雀天皇の子。藤原道長の孫。皇子が生まれず藤原摂関家の外戚支配は終わった。前九年の役、荘園整理令の公布など、問題が表に出始めた時代。
 71 後三条天皇 1068~1072 後朱雀天皇の第2子。外戚勢力が弱く、また皇子時代に藤原氏から冷遇された経験から、親政に乗り出し、能力本意で人事を行った。主に荘園経済対策で効果を上げている。
 72 白河天皇 1072~1086 後三条天皇の子。幼少の堀河天皇に譲位後、上皇として後見し院政を開いた。藤原氏に代わり源氏平氏が台頭してくる。
 73 堀河天皇 1086~1107 白河天皇の第2皇子。8歳で即位。成長するにつれて白河上皇の院政を批判し、貴族の支持も得て院政専制を阻止し親政に努めた。
 74 鳥羽天皇 1107~1123 堀河天皇の子。当初白河院政下にあったが、白河上皇の死後は自ら院政を布いて政治に関与した。
 75 崇徳天皇 1123~1141 鳥羽天皇の子。5歳で即位。白河法皇、鳥羽上皇の院政下にあった。近衛天皇に譲位後も上皇としての実権を窺うがうまくいかず鳥羽上皇の死後挙兵(保元の乱)。しかし敗北して讃岐に流された。西行と親しかったという。
 76 近衛天皇 1141~1155 鳥羽上皇の子。3歳で即位。
 77 後白河天皇 1155~1158 鳥羽天皇の第4子。院や藤原氏らの思惑により、次の二条天皇即位のためのつなぎとして即位。しかし保元の乱を制し実権を握る。二条天皇に譲位後も院政を敷いて、以降、後鳥羽天皇までの30数年間も院として君臨した。平氏が台頭すると源氏と結び、源氏同士も対立させて、権力の座にあり続けようとしたが、これが逆に武家の全国支配に道を作った。源頼朝に「日本国第一の大天狗」と評された。
 78 二条天皇 1158~1165 後白河天皇の子。平治の乱では天皇の確保に両軍が動いた。
 79 六条天皇 1165~1168 二条天皇の第2皇子。2歳で即位。後白河法皇の院政下にあった。5歳で譲位し、13歳で没した。
 80 高倉天皇 1168~1180 後白河天皇の第7子。甥に当たる少年帝六条天皇の皇太子となってから即位した。父法皇と平清盛が対立するに至ると、譲位して院を布いた。笛の達人と言われる。
 81 安徳天皇 1180~1185 高倉天皇の子。1歳と少しで即位。外戚平清盛の時代で、たびたび福原に住した。源氏の挙兵に追われ、平家一門とともに入水した。
 82 後鳥羽天皇 1183~1198 高倉天皇の第4子。後白河法王の手で即位。法王の死後、九条兼実、源通親らの権力者の後に実権を握った。院政を敷いて以降3代の天皇に君臨し、貴族間の対立を解消、源家将軍ともうまくいっていたが、北条家と対立。将軍後継問題からついに倒幕を計画し挙兵する。しかし、幕府軍に敗北し、隠岐に流され同地で没した。
 83 土御門天皇 1198~1210 後鳥羽天皇の子。承久の乱に加わらなかったが、乱後自ら望んで土佐に流された。阿波で没。
 84 順徳天皇 1210~1221 後鳥羽天皇の子。承久の乱の直前に譲位し、乱で敗れて佐渡に流された。歌人として知られる。
 85 仲恭天皇 1221 順徳天皇の子。承久の乱直前に4歳で即位し敗戦後退位。在位はわずか70日で、九条廃帝と呼ばれた。明治になって天皇の列に加わり、仲恭天皇と名付けられた。
 86 後堀河天皇 1221~1232 後高倉院の第3皇子。承久の乱後、仲恭天皇を廃した幕府によって即位。四条天皇に譲位し院政を始めるがまもなく没。
 87 四条天皇 1232~1242 後堀河天皇の子。誕生翌年に即位。父上皇もまもなく没し、実権は外戚九条家に移った。しかし外戚摂関家としての思惑は、四条天皇が子をもうける以前に、遊戯中の不慮の事故死によって瓦解した。
 88 後嵯峨天皇 1242~1246 土御門天皇の第2子。四条天皇の事故死により、幕府の手で即位。4年後に譲位し院政を布いた。幕府との関係改善を進め、また朝廷政治の改革も行った。
 89 後深草天皇 1246~1259 後嵯峨天皇の子。後継問題で大覚寺統と持明院統の分立を引き起こした。
 90 亀山天皇 1259~1274 後嵯峨天皇の子。大覚寺統の初代天皇。荘園や幕府との関係で、持明院統との対立を深めた。南禅寺を創建。
 91 後宇多天皇 1274~1287 亀山天皇の第2子。後二条天皇の代に院政を布く。
 92 伏見天皇 1287~1298 後深草天皇の第2皇子。朝廷改革に乗り出す。書の達筆家だったと言われる。持明院統。
 93 後伏見天皇 1298~1301 伏見天皇の子。
 94 後二条天皇 1301~1308 後宇多天皇の子、後醍醐天皇の異母兄。大覚寺統だが、幕府の介入で持明院統の後伏見天皇の立太子となる。
 95 花園天皇 1308~1318 伏見天皇の第3子。持明院統。学問好きで、即位後は伏見院政を批判、後醍醐天皇に譲位後は政治の健全化に期待をかけたが失望し、その思想を批判した。光厳天皇即位後は院政を布こうとしたが後醍醐天皇の復権により失敗した。北朝が誕生して以降は仏教と文芸に専念した。
 96 後醍醐天皇 1318~1339 後宇多天皇の第2子。大覚持統で、持明院統の花園天皇の皇太子となり即位。親政を目指し倒幕を策すが、たびたび失敗した。元弘の乱でついに捕らわれ隠岐に配流されるも、まもなく隠岐を脱出、悪党と呼ばれた諸勢力と手を組み挙兵、幕府軍の足利尊氏が味方に付き、倒幕を成し遂げた。しかし建武の新政では独断的な政策が多くの勢力から反発を買い、足利氏の北朝擁立によって吉野に落ち、南朝を開いた。親政を行った最後の天皇。30人以上の子がいたという。
 97 後村上天皇 1339~1368 南朝。後醍醐天皇の第8皇子。南朝方として陸奥将軍府に派遣された後、吉野に戻り即位。
 98 長慶天皇 1368~1383 南朝。後村上天皇の子。住吉で即位。記録が少なく、長いこと在位が疑問視されていた天皇で、研究の結果、大正になってはじめて天皇の列に加えられた。
 99 後亀山天皇 1383~1392 南朝。後村上天皇の子。両朝迭立の条件で京に戻り北朝の後小松天皇に譲位した。しかし大覚寺統が継ぐことはなく、反発して吉野に出奔、まもなく京に戻った。
  光厳天皇 1331~1333 北朝1代。後伏見天皇の第3皇子。後醍醐天皇の皇太子となり後醍醐天皇の挙兵失敗後、幕府の手で即位。後醍醐天皇方の軍勢によって捕らえられ、皇位を廃されて太上天皇と贈号された。その後、足利軍が後醍醐天皇から離反し光明天皇を擁立すると、要請を受けて上皇として院政を布く。足利家の内紛で尊氏が南朝に一時降伏した際には南朝方の手で幽閉された。その後京に戻り、丹波に隠棲した。
  光明天皇 1336~1348 北朝2代。後伏見天皇の子。足利氏により擁立される。朝廷の実権は光厳上皇の手にあった。崇光天皇に譲位後、足利氏の内紛で南朝方に捕らわれ幽閉される。帰京後、洛南や大和で仏道を修める。
  崇光天皇 1348~1351 北朝3代。光厳天皇の子。即位後まもなく足利家の内紛から尊氏らが南朝に降伏、南朝方の手で廃された。しばらく幽閉された後、京に戻った。子孫は伏見宮家を興した。
  後光厳天皇 1352~1371 北朝4代。光厳天皇の子。崇光天皇が南朝の手で廃されると、足利義詮に擁立された。譲位後院政を布く。
  後円融天皇 1371~1382 北朝5代。後光厳天皇の子。譲位後院政を布く。
100 後小松天皇 1382~1412 南北両朝合一の天皇で北朝。後円融天皇の子。両朝合一により南朝の後亀山天皇より神器を受けた。譲位後、院政を布く。僧一休は実子と言われる。
101 称光天皇 1414~1428 後小松天皇の皇子。病弱で気性が激しかったという。
102 後花園天皇 1428~1464 後崇光院の子(崇光天皇の曾孫)。学問好きの天皇だったと言われ、贅沢な日々を送る足利義政を諫めた逸話で知られる。
103 後土御門天皇 1464~1500 後花園天皇の子。応仁・文明の乱で皇室文化の衰微するのを危惧し、有職故実の研究を行った。
104 後柏原天皇 1500~1526 後土御門天皇の子。即位式が即位後22年たって献金で行われるほど貧窮していた。有職故実につとめる。
105 後奈良天皇 1526~1557 後柏原天皇の子。即位式が即位10年後に諸大名の支援で行われた。
106 正親町天皇 1557~1586 後奈良天皇の子。織田・豊臣政権下で衰退した皇室の伝統復活に尽力した。
107 後陽成天皇 1586~1611 正親町天皇の孫。豊臣秀吉とは比較的友好で皇室の経済も回復してきたが、徳川家とは徐々に対立し譲位に至った。
108 後水尾天皇 1611~1629 後陽成天皇の子。徳川秀忠の娘を女御とした。禁中並公家諸法度、紫衣事件、無位の春日局拝謁など、朝廷の権威の失墜に不満を募らせ、突如譲位した。以降51年間院政を布く。
109 明正天皇 1629~1643 後水尾天皇の皇女。幕府と対立した父後水尾天皇の譲位強行で即位した。
110 後光明天皇 1643~1654 後水尾天皇の子。酒好きとして知られる。
111 後西天皇 1654~1663 後水尾天皇の第8皇子。霊元天皇即位までのつなぎとして即位した。文芸著作活動に意を尽くした人物。
112 霊元天皇 1663~1687 後水尾天皇の第19皇子。朝廷の復権を望み、朝廷人事も自ら決定したが、泥酔事件を起こすなど問題もあり、摂政近衛基煕や幕府とも対立した。東山天皇に譲位後、その大嘗祭を実現させた。
113 東山天皇 1687~1709 霊元天皇の第4皇子。幕府との関係は良好だった。
114 中御門天皇 1709~1735 東山天皇の第5皇子。幕府との関係は良好だった。芸能に秀でていたという。
115 桜町天皇 1735~1747 中御門天皇の第1皇子。朝廷の儀式復興に意を尽くし、文芸にも取り組んだ。
116 桃園天皇 1746~1762 桜町天皇の皇子。学者天皇として有名で、垂加神道に興味を持ち進講を行ったことが宝暦事件に発展した。
117 後桜町天皇 1762~1770 女帝。桜町天皇の子。幼少だった後桃園天皇即位までのつなぎとして即位。和歌を多く残した。
118 後桃園天皇 1770~1779 桃園天皇の子。皇子が無く閑院宮家から養子(光格天皇)を迎えた。
119 光格天皇 1779~1817 閑院宮家典仁親王の子。先例に基づき父に太上天皇を贈ろうとして幕閣と対立(尊号一件)。尊皇運動へとつながっていく。
120 仁孝天皇 1817~1846 光格天皇の第6皇子。公家子弟の教育を行う修学所の設置に動いた。後の学習院。
121 孝明天皇 1846~1866 仁孝天皇の第4子。開国問題で断固反対して幕府と対立した。一方で公武合体を受け、妹和宮を徳川家に降嫁させた。また過激な尊皇攘夷運動を嫌ったと言われ、長州系尊攘派を追放している。疱瘡で没したが、急死したことから毒殺説がある。
122 明治天皇 1867~1912 孝明天皇の子。討幕派によって政治の頂点に立つことを求められた。維新後近代化の中で政務に精励したと言われるが、一方で洋風を嫌い、特に写真に撮られることを好まなかったという。以降、一世一元となる。
123 大正天皇 1912~1926 明治天皇の子。在位後半は病気により皇太子を摂政とした。
124 昭和天皇 1926~1989 皇太子の時、父大正天皇の病状悪化で摂政に就いた。国政機関の補弼による立憲君主論にこだわっていたと言われる。第二次大戦終結後、神格を否定する人間宣言を出した。戦争責任を問う動きもあり、自らもたびたび退位を口にしたという。生物学研究者でもある。
125 今上天皇 1989~ 年号は平成。


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